金剛福寺

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高知県:NO38

(三十八番札所)蹉?山金剛福寺 真言宗豊山派 本尊:三面千手観世音菩薩
高知県土佐清水市足摺岬伊佐214 駐車場30台

四国の最南端足摺岬の亜熱帯の樹林の中に、仁王門、本堂、多宝塔、大師堂、護摩堂、鐘楼、観音堂、地蔵堂、熊野権現社、庫裡などの伽藍がある。山号の蹉?山の、蹉の字も?もともに、「つまづく」という意味である。第三十七番岩本寺からこの金剛福寺まで実に約百キロ、足摺岬は約六キロにわたり花崗岩の大岩壁が太平洋に突き出ている。青年空海の修行時代はもとより、お遍路さんたちは、獣も通わぬような険しい道に行き悩んだことであろう。文献には見当たらぬが、青年と空海はこの難所に修行したと想像される。本尊千手千眼観音菩薩の相好が、熊野補陀落山寺の本尊同じ三面形式であることは、熊野信仰との結びつきの強いことを示すものといえる。現に境内には熊野権現社が再建されている。彼は船に乗り家形に入って後、外より釘をもって皆打付、一扉も無し、日月光をみることあたはず、ただ燈びによるべし。三十余日のほどの食物ならびに油等をわずかに用意す「吾妻鏡」とあるように、木の葉のような小さい舟に身を托して、熊野(紀州の南岸)より観音菩薩の補陀落浄土をめざして大海に漂流していった入水渡海の行者があったように、金剛福寺の足摺岬も補陀落渡海の行場であった。足摺岬には、女西行といわれる後深草院二条の「とはずがたり」に次のような説話が伝えられている。その昔、金剛福寺に、さる大僧が一人の小僧さんと二人で住んでいた。そこへ、どこからともなく一人の旅の僧がやって来た。昔のことで、人里遠く離れた辺鄙な足摺岬に豊富な食物がある筈はなかった。にもかかわらず大僧に仕えていた小僧さんは食事のたびに乏しい自分の食事を分け与えてたべさせていた。それを見て大僧は、「一度や二度ならともかく、たださえ乏しい食物を、毎度々々お前のように分け与えていたのでは、私たち二人の食事にも困ることになる」と小僧さんを叱るのであった。けれども小僧さんは、その後も「今度だけだよ」と言いながら旅の僧に食物をわけ与えていた。すると、ある日のこと、旅の僧は「これほどの情は忘れ難い。さらば、わが栖を見せてあげよう」と小僧さんを誘って海の方へ出てゆくのであった。不思議に思った大僧が二人のあとをつけてゆくと、二人は岬端に至りの一葉の舟に棹さして南へ向かって大海へと出て行くではないか。大僧は泣く泣く「我を捨てていずくへ行くぞ」と叫ぶと、法師から「補陀落世界へまかりぬ」という返答がかえってきた。そして見ると二人の法師は観音様になって、船の艫舳に立っているのであった。これを見た大僧は足摺りしながら、悲しみ泣き叫んだ。それからこの岬を足摺岬と呼ぶようになった、というのである。「とはずがたり」は、嘉元四年(1306)のころのことであるが、時代が下って江戸中期になると、足摺山当時ハ大師ノ開基、嵯峨天皇ノ御願ナリ。往古ハ此山魔所ニテ人跡絶エタリ。然ルヲ大師分ケ入り玉ヒ、悪魔ヲ降伏シ玉フニ、呪力ニヲソレテ手スリ足スリシテニゲ去リケル間、月輪山ト云ヒシヲ改メテ蹉?山ト号シ玉フ。二字ヲ足スリフミニジルト訓スル故ナリ。其訓ヲ其侭用ヒテ足摺山ト云フナリ 澄禅(四国遍路日記)という。この伝えの変化は、四国霊場信仰の大師信仰一本化の過程を示すものといえる。金剛福寺には、嵯峨天皇御宸筆と伝える「補陀落東門」と刻んだ木額が保存されている。このほか、ここには、@天灯の松A竜灯の松Bゆるぎ石(大師開創のとき発見、孝心ある者はゆらぐ)C潮の満干の手洗い石D亀よび場(大師が亀の背にのって次の岩に渡られた)E地獄の穴F天狗の鼻などといった行場があり、修行者たちはこれらをめぐって辺路を修行していたのである。エメラルド色に澄んだ太平洋を背景に白い波しぶきを浴びながら、修行した昔のお遍路さんたちの姿があったわけである。現在では土産物展やレストラン、ホテルなどが建ちならび、観光地足摺岬の色が濃い。

金剛福寺

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